マルゼンスキーとは?血統や産駒・最強と呼ばれたレース動画を解説!

スポンサーリンク

80年を超える競馬の歴史の中で
様々なルールが変更され
レース体系が整備されていきました。

例えば、昔の天皇賞は、
勝ち抜け制だったため
一度優勝した馬は出走できず
春連覇や春秋制覇ができませんでした。

そういった当時のルールの
あおりを受け、潜在能力が
ベールに包まれたまま
無敗でターフを去った
マルゼンスキーという馬がいました。

産まれながら脚元が弱く
強い調教がほとんど出来ないにも
関わらず、圧倒的な強さを見せ
スーパーカーと称された
マルゼンスキー

当時は出走できるレースが1割程度しかない
“持ち込み馬”の宿命ゆえ、全能力を発揮する
ことがないまま引退した
伝説の無敗馬をご紹介します。

スポンサーリンク

マルゼンスキーの成績/戦績は?

出展:http://forthesweepstakes.blogspot.jp/

(当時の年齢表記で記述します)

3歳の10月にデビューした
マルゼンスキーは
スタートから先手を奪い
1200m戦にも関わらず
2着に2秒もの差を付ける
圧巻のレースを見せます。

2戦目も9馬身差の圧勝、
3戦目の府中3歳ステークスでは
ハナ差の接戦となったものの
勝利し東の3歳王者決定戦
朝日杯3歳ステークスに出走します。

初めて目一杯の調教を
施されたマルゼンスキー
スタートから先頭を走り
前走でハナ差まで詰め寄られた
ヒシスピードを13馬身も
突き放すレコードタイムで
勝利
を果たします。

持ち込み馬のため
クラシックに出走権がなく、
ジャパンカップもない時代のため
4歳になったマルゼンスキーは
最大目標を有馬記念に据えて
出走していくことになります。

4歳初戦を軽く優勝した後、
軽度の骨折が判明しますが
すぐに復帰し7馬身差の完勝。

続く日本短波賞では、
マルゼンスキー見たさに
8万人の観衆が集まる中、
後の菊花賞馬プレストウコウ相手に
7馬身差をつける圧勝劇を
見せつけ戦績を7戦7勝とします。

その後、札幌でのダート1200m戦も
芝と遜色ないタイムで圧勝した
マルゼンスキーでしたが、
軽度の屈腱炎を発症。
有馬記念へ直行するように
休養と調整がされましたが
有馬記念の直前にまたもや
軽度の屈腱炎を発症

持ち込み馬のため
出走レースが限られていることもあり
そのまま引退することになりました。

通算成績8戦8勝 [8-0-0-0]。
2着につけた着差の合計は61馬身

慢性的な脚元の不安から
目一杯に調整されたレースが
ほとんど無いながら
圧倒的な強さを見せつけた
現役生活でした。

マルゼンスキーの獲得賞金は?

マルゼンスキーが獲得した
賞金は7660万円。

出走レースが限られていたため
同期のクラシックホースと
比べても少ない賞金額でした。

マルゼンスキーのレース動画

圧巻の強さを見せ続けた
マルゼンスキーのレースを
動画でご覧いただきましょう。

今回は、

をご紹介します。

1.朝日杯

マルゼンスキーが唯一
本気を出して走った
と言われているのが
1976年の朝日杯3歳ステークスです。

脚元が弱かったせいで
あまり強い調教を
してこなかったマルゼンスキー。

前走でクビ差まで
詰め寄られたことから
初めて一杯に追われて
レースに臨みました。

スタートは今ひとつだったものの
スピードの違いでハナに立つと
そのまま影を踏ませぬ逃走劇で
2.2秒差をつける圧勝
東の3歳王者に輝きました。

ちなみに2着馬のタイムは
通常の年なら、十分に
勝ち負けできる時計なので
マルゼンスキーとの
能力の違いが歴然とした
レースとなりました。

2.日本短波賞

続いては、1977年の日本短波賞です。

当時の規定でダービー
出走することができなかった
マルゼンスキー。

ダービーに間に合わなかった馬や
ダービーで一息だった馬などが
集結し「残念ダービー」と
言われていた日本短波賞
出走します。

いつも通りにスピードの
違いからハナを切った
マルゼンスキーでしたが、
3コーナーに入る辺りで失速

後続に抜かれますが、
そこから再加速して
すぐに先頭を奪い返します

あとは後続を引き離し
ダービートライアルの勝ち馬で
後の菊花賞馬プレストウコウが
追い込むも7馬身前でゴール

世代トップクラスの馬でも
全く相手にしない強さで
連勝を7に伸ばしました。

3.府中3歳ステークス

最後に取り上げるのは
唯一の接戦となった
府中3歳ステークスです。

重賞格を勝っている
ヒシスピードとの対戦
となるも1.1倍の圧倒的
1番人気に押されたマルゼンスキー。

デビュー2戦と同じように
スピードの違いで逃げますが
早めにヒシスピードが
馬体を併せてくると
いつものような伸びが見られません。

ゴールまで2頭の叩き合いが続き
マルゼンスキーがハナ差だけ先着

何とか連勝を保ちました。

この接戦の要因としては、
ヒシスピードに寄せられた所で
騎手が追い出しにかかりましたが
調教でも追われたことがなかった
マルゼンスキーの反応が
イマイチ
だった事と、
その反応で騎手が慌てたからだと
言われています。

マルゼンスキーにまつわる名言

マルゼンスキーの強さは
競馬サークルでは知られており
恐れをなして、出走馬が集まらず
ほとんどが少頭数
競走不成立になる
レースもあったほどでした。

当時の規定でクラシックへの
出走権はありませんでしたが、
何とか出走できないか
関係者が働きかけたことも
あったと言います。

そんな中、主戦を務める騎手から

  • 「枠順は大外でいい。他の馬の邪魔は一切しないし、賞金もいらない。この馬の能力を確かめるだけでいいからダービーに出させて欲しい」

という言葉。

これは、マルゼンスキーの生まれた
時代の悪さを伝える名言として
広まっています。

マルゼンスキーの血統は?

圧倒的な強さを見せた
マルゼンスキーの父は
ニジンスキー。

史上15頭目のイギリス三冠馬
という名馬にして、
155頭の重賞ホースを生み出した
世界的な名種牡馬です。

母のシルもアメリカの殿堂馬の
血を引く馬でした。

シルがニジンスキーの子を
受胎している時にセールで
落札され、日本にやって来ることになり
誕生したのがマルゼンスキーでした。

「持ち込み」に当たる
マルゼンスキーは当時の規定では
出走できるレースがほとんど
ありませんでしたが、
その頃の日本競馬としては
異例の良血だったため
産まれてまもなくして
シンジケートが組まれたと言います。

マルゼンスキーの性格って?

圧倒的な強さと速さを
見せつけたマルゼンスキー。

その気性にまつわる
エピソードがほとんど無い
ことから、癖がなく
扱いやすい性格の
馬だったと言えるでしょう。

レースでも騎手との
折り合いを欠くことは
ほとんど無かったようなので
素直で頭の良い馬だったと
考えられます

マルゼンスキーの脚質は?

マルゼンスキーのレースは
スタートしてから先頭に立ち
そのまま押し切るものばかり。

一言でまとめると脚質は
“逃げ”になるでしょう。

一般的に、馬群が苦手など
気性的な要因から
逃げ馬になることが多いですが、
マルゼンスキーの場合は、
能力の違いが要因。

スピード能力が圧倒的に違うので、
自分のペースで走っているだけ
にも関わらず逃げているように
なってしまいました。

マルゼンスキーの騎乗騎手って誰?

伝説を作ったマルゼンスキーの
8戦すべての手綱を取ったのは
中野渡清一騎手

それまで八大競走1勝、
重賞格のレース6勝と
中堅だった中野渡騎手が
怪物に騎乗できたのは
マルゼンスキーを管理した
本郷厩舎の所属だったから。

現在だと、これだけの良血で
期待馬ならトップ騎手が
デビューから手綱を取るでしょうが
当時は、まだまだ調教師と騎手が
セットと考えられていた時代

一度も負けなかったこともあり
中野渡騎手が最初から最後まで
マルゼンスキーに乗り続けました。

マルゼンスキーの馬主は誰?

マルゼンスキーを所有したのは
橋本善吉さん。スピードスケートの
オリンピックメダリストで、
参議院議員の橋本聖子さんの
お父様です。

善吉さんは、有名な牛の仲買業者で
競走馬を手掛けたいと
思っていた時にセールで
出会ったマルゼンスキーの
母シルに一目惚れし
当時としては異例の
9000万円で購入しました。

マルゼンスキーのことを
溺愛していた善吉さんは、
自分の次男と言って
憚らなかったそうです。

マルゼンスキーの産駒は?

出展:http://buyee.jp/

世界的に成功を収める
父の後継として
種牡馬入りしたマルゼンスキーは
自身が出走できなかった
クラシック制覇を産駒で
達成します。

日本ダービーなどG1・2勝の
サクラチヨノオー、
菊花賞馬ホリスキー、レオダーバンなど
多くの重賞勝ち馬を出しました。

また、母の父としても偉大さを示し
ライスシャワー、ウイニングチケット、
スペシャルウィーク、プリモディーネ、
といったクラシックホースを出しました。

まとめ

競馬史に残る圧勝劇を
見せ続けた伝説の1頭
マルゼンスキーをご紹介しました。

今では、ほとんど聞かなくなった
“持ち込み馬”という存在を
マルゼンスキーを通じて
知っていただけたら幸いです。